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2007年1月31日(水) 05:07

教育装置としての塾

[「塾は禁止」 野依先生は壊れてしまわれた]


懐古主義に陥って体験談だけでしか議論が出来ない、”学のない”人間(いわゆる”勉強ができない”という意味ではなく、教育学といった体系を修めていない、という意味)だけで踊る教育再生会議に何の意味があるのだろう。

第一教育って社会の再生産論なんだから、「今の教育全体が病んでいる」というのならば、「そういう教育を行っている連中を教育してきた」懐古的教育は実は破綻していた、という前提の見直しすらせざるを得ない。

教育は未だ完成形を見ていない学問体系だろう。
(学問の体裁をしていること自体完成を見ないといっているようなものだが)


んで、「学のない」ってのは当然その批判は僕のような現場人間にも返ってくる訳であって、是非教育学部で学を修めた人間に議論と旗振り、根本的な構造改革を求めていきたいところであるが、現場の人間ですらこの人たちが発する言葉が空理空論であることが理解できてしまう。

そりゃ理想だけなら小学生だってあげられるっつーの。

カンカク的に「あれはダメだこれはダメだ、だからこーしろ」というのは論文書きとしてもあまりにプロセスが抜けているのが分かるだろ。
物理学はそうでないのか? そうしたことも野依先生は忘れてしまわれたか?


少なくとも今の時代、理由は分からないが、教育の元でもあり子供の生活の基盤でもある”家庭”のもつ機能が減っている。格差が広がる中で、”下層”に位置づけられた家庭が今までの”中流”家庭が提供してきたサービスを子供に注げるとは甚だ考えづらい。
その負担は学校に流れるため、近年学校に求められる負担が大きくなりすぎている。さらにその溢れた分が塾にきている。主に修学・訓練の部門だ。

例えば今の話だと、雇用の問題も充分教育を死にたらしめていると考え得る。
だから財界の勝ち組なんかが教育再生会議にいて、その議論に全く触れない時点でちゃんちゃらおかしいのだ。

さもなければ永遠に終わらない対処療法を現場に押し付けるか、「ゆとり←→詰め込み論」のような空虚な原則論を朝令暮改に変えて現場を困らせるかにしかならない。


もうちょっとさー、トップダウンガバメントではなくてさ、現場が蓄積を作ってボトムアップの問題発見→解決をするガバナンスを構築するって考えはないのかねぇ。
現場の公立の先生達を馬鹿にしすぎだよ、あんたら。

written by sofuwe [仕事] [この記事のURL] [コメントを書く] [コメント(0)]

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